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霧とも霧雨ともつかない一面の白い雲の中、足元の歩き慣れた木道だけが辛うじて見分けられた。
草樹の息遣いすら静寂に溶けゆくこの空間に、響くのはただただ自分の足音のみ。
この幻のような夕暮れこそ、山深いこの土地の晩春の風物詩であった。
丸木積みの山小屋に帰り着く頃には陽も落ちかけ、世界を抱く雲は薄暮の紫色に染まっていた。
後ろ手にドアを閉め、手探りで明かりを灯すと、高い三角屋根に縦横に渡された梁の影が映る。
二重ガラスの窓にカーテンを引き、山積みの薪をいくらか暖炉にくべると、程なく穏やかな暖かみが部屋に満ちてゆく。
あり合わせの野菜とホワイトソース、チーズを深皿に放り込み、薄切りのパンと並べて暖炉の石窯へ。
一杯目のハーブティーが残した湯気を目で追ううちに、焼けたチーズの泡立つかすかな音が聞こえて来る。
山葡萄のジャムの瓶に映り込んだバターナイフは狐色のパンが暖炉から下ろされるのを今か今かと待ち焦がれ、
使い込まれたフォークとスプーンはその傍らでささやかなメインディッシュを出迎えようとしている。
山小屋の煙突から香ばしい煙が立ち上る頃、辺りを覆い包んでいた雲はいつの間にか人里へと流れ去り、
銀の月と無数の星達に飾られた風景に、白樺の枝を走るリスの影だけが僅かばかりの動きを添えていた。
五月を迎え今なお冷え込む山の夜は、どこまでも静かに更けてゆく。
この世でいちばん上等のふかふかベッドでこの部屋はできてる
幾重に連なる真白いシフォンの合間に色とりどりの星は読書灯
三日月のかけらのナイトテーブルには読みかけの絵本と
まだ巻雲のしっぽをたなびかせるミルクティーを一杯
金ぴかのモーニングベルは今夜の夢から戻るまでお休みで
淡い水色、ピンク、黄色の咲き乱れる鉢植えは子守唄の熾火
蔦の這う窓枠に引かれたカーテンが部屋のふちなのかもしれないけど
どっちにしても扉のないこの部屋を見つけられるのはわたしだけ
わたしは眠りを求めてここに来る
わたしは眠りのためだけにここにいる
どんな世界のどんな眠りもかなわないとびっきりの夢と安息のために
この世でいちばん上等のふかふかベッドでこの部屋はできてる
この世がいちばん上等の夢であるようにわたしはここにいる
おやすみなさい。良い夢を!
「――くぁ」
午後の旅宿の空き部屋に、小さな欠伸の泡ひとつ。
長い尻尾の黒猫ひとり、出窓の縁に腰掛けて、滲んだ空に背を向けて。
「……みぃ」
振り返り、呟き。雨音。
小道は水底、木立は踊る。色とりどりの無彩色。
ごろん。
窓枠ひとつに隔てられ、綿の客間は別世界。
硝子瓶には紅の花。見上げて寝そべり、暫し微睡み。
――すぅ。
やがて水音は遠ざかり、雨上がり、緑の香り。
雨雲は地平線、風が運んだ夏の空。窓辺に陽射し、空には淡く虹の帯。
「――みぁ、」
彩雲渡る猫の夢、目醒めた部屋は紅、朱、黄金に緑青、紫藍。
花瓶の小さなひび割れに、跳ねた光も七色に。
「…………」
「にぁ」
開いたままの扉の影に、三日月尻尾の白猫ひとり。
七分間の彩りを、踏み越え横切り南の窓へ。音もなく。
「みぃ」
「にぃ」
午後の旅宿の空き部屋に、小さな欠伸の泡ふたつ。
軒先落つる雨滴、硝子を透した虹も散り。
遠く風鈴、夏の夕暮れ。
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